共白髪

       願うことなんて、本当はたった一つしか無い。



 はぁ、と一際荒い呼気が、濡れた熱を持って首筋の辺りに蟠る。それと共に、どさりと熱い体が倒れ込んできて   けれど、それはすべての重さを私に委ねる事無く、彼自身の両肘を支えとして留められた。
 ぽたりと伝う雫が、鍛え上げられた彼の胸から、私の鎖骨へと落ちてくる。
「……大丈夫、ですから。力を抜いて下さい」
「千鶴   
 大丈夫です、と重ねて言うと、彼は大きく肩で息を吐き出してから、漸く体の緊張を解いて、全身を私の上に預けてきた。
「辛ければ、言え」
 耳元で響く掠れた声が、ぞくりとするほど艶かしい。
 一見荒っぽそうに見えて、その実細やかな心遣いのある人だと知ってはいたけれど、こうして肌を重ねるようになってから、私はその事を改めて実感するようになっていた。
「歳三さん、汗……」
 指を伸ばし、汗で額に張りついた髪をそっと払う。そのまま手を滑らせ、生え際から項へと黒絹を梳きながら、指に絡むしっとりした感触を楽しんでいると、不意に彼がくすぐったそうに目を細めた。
 彼の指が、するりと耳を撫でる。そうして歳三さんの器用な手櫛が、私がそうするのを真似て、さらさらと私の髪を梳き揃えてくれた。
「随分、伸びたな」
 苦笑する端正な面差し。紫苑の瞳が、眩しいものを見るように私を見下ろしている。
 戦いが終わった頃は、まだ肩より少し下だった私の髪は、今は背なの中ほどまで来ていた。けれど私は小さく笑って、首を横に振る。
「まだ、昔の歳三さんには敵わないです。
 ……あの頃は、この辺りまで長かったんですよね」
 そう言って、すう、と彼の背中を撫でる。ほんの少し前まで、豊かな黒髪に覆われていたそこは、今は張りのある筋肉の手触りを伝えてくる。
「一度、歳三さんの髪を梳かせて貰った事がありましたよね。覚えてらっしゃいますか?」
「忘れるかよ。女に髪を結ってもらうなんざ、ガキの頃以来だったからな」
「あの時、触らせてもらった歳三さんの髪がすごく綺麗で……私、とても羨ましかったんです。
 櫛の通りも良かったし、全然傷みも無くて……本当に、見とれるくらい綺麗でした」
 そう告げると、彼の苦笑がいっそう深くなった。
「なんだ。そうなると、髪を切っちまった俺は、もうお前にゃ用無しって事なのか?」
「え!? そ、そんな事無いですっ! 髪の短い歳三さんだって、そ、その……ちゃんと、す、好きですからっ!」
 顔が熱い。勢いに任せて一気にまくしたてると、分かった分かった、と笑いながら、彼の腕が私をぎゅっと抱きしめてくる。
 その首に腕を回し、私も歳三さんの体を抱きしめ返しながら、そっと小声で呟いた。
「ただ、その……ちょっと、懐かしくなっただけなんです」
 独り言めいた私の言葉に、彼は僅かに息を飲んで   そして、私を抱く両腕に、強く力が込められる。
「あの頃は……夢にも思わなかったな。いや、……夢にも、望まなかった   と言うべきか」
 その囁きに、歳三さんも私と同じ事を思っているのだと知って、胸の奥がぎゅっと締めつけられるように切なくなった。
(土方さん)
 もう、久しく口にする事の無くなったその名を心の中で呼びかけると、鮮やかに瞼の裏側に浮かび上がってくる面影がある。

       浅葱の羽織と、背に流れる漆黒の髪。
 その凛とした立ち姿は、私にとって手の届かないものの象徴だった。

 決してこちらを振り返る事無く、己の信じた戦の道を一筋に逝く背中を、無我夢中で追いかけた日々。
 少しの憧れと、抱えきれないほどの苦しさを背負い込んで、傷つけられて、突き放されて、それでも諦めることの出来なかった、ひと。
 大好きで、大好きで、何度も何度も名を呼んで、そのたびに溢れてくる想いを押さえ込んで、眠れぬ夜を幾度越えたか分からない。
 それほどに、想っていた。焦がれていた。

(土方   さん)

 長く艶やかな髪を持っていたその人の名を、私はまだ覚えている。
 結局、その頃の彼には、ただの一度も私の心が届く事は無かったのだけれど。


「千鶴」
 複雑な私の思いを読み取ったように、歳三さんが優しく私の頭を撫でてくれる。彼の姿も呼び名も、その在り方も移り変わっていったけれど、歳三さんが私を呼ぶこの声だけは変わらない。
「……また、伸ばしてみるのもいいかもな」
 殊更軽い口調で、冗談のように紡がれたその言葉に、私はびっくりして顔を起こす。歳三さんは、そんな私を見ながら、くすりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「正直、手入れが面倒だと思ってたんだが   またお前が結ってくれるなら、髪を伸ばすのも悪くねぇだろ」
「で、でも歳三さん、人に髪を弄らせるのは好きじゃないって、前   
「馬鹿が。お前は別に決まってんだろうが。
 大体、今の今まで散々好き勝手に人の髪いじり回しておきながら、今更何言ってやがるんだ、お前は」
 口調は乱暴だけど、含まれるものはどこまでも優しい。
 今は少しだけ、その優しさに甘えてみたいと思う。
「はい。……また、長い髪の歳三さんも、見てみたいです」
 私の我が儘に、そうか、と笑って、歳三さんは私の頬に唇を触れた。
 襟足を短く切り揃えた彼も精悍で素敵だけれど、はらはらと長く落ちかかる髪を、褥に這わせた歳三さんの姿は、どれほど綺麗なんだろう   と思うと、体の内側から、消え残る埋火のような熱が火照り始める。
 肌を合わせている歳三さんにも、その熱さは直接伝わってしまったんだろう。ただ緩く私を抱いているだけだった腕は、やがて明確な意志を持って蠢き始め   そうして私はまた、彼の与える嵐のような時間に翻弄されていく。

 歳三さんに抱きしめられながら、私はただ乞い願う。
 本当に願うことなんて、たったひとつしかない。

(……どうか)

 貴方の髪が、いつかの長さになるまで。
 それは五年か十年か分からないけれど、どうかこの幸せな日々が続くようにと。

    願わくば。
 その黒絹が、羅刹の毒ではなく、降り積む歳月に白く染まるまで   .


       私は、貴方と共に在りたいのです。

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