刃雨 3

 しとしとと雨音の満ちる部屋の中、互いに無言のまま、二人は黙って向かい合う。
    否。
 相手に真っ正面から向き合っているのは花梨の方だけだ。天の青龍たる源氏の武士は、その逞しい体を屈め、膝をついて臣下の礼を取っている。しかし、その慇懃な所作は形ばかりであり、本当は少女に対する頑な拒絶を意味している事を、彼自身も   そして恐らく、花梨もまた理解していた。
「頼忠さん、顔を上げて下さい」
      
「頼忠さんっ」
 二度促されて、彼はやむなく面を起こす。視線の先に捕らえた主は、思った通り愛くるしい顔貌を歪めて、何処か泣きそうな表情をしていた。
「わたしが無神経な事しちゃったのは謝ります。
 でも、頼忠さんが穢れてるとか、そんな言い方は止めて下さい。わたし、一度もそんなこと思った事ありません。貴方は、穢れてなんかない……っ」
「ですが、事実です。神子殿」
 従者としてあるまじき事だが、頼忠は主である少女の言葉に公然と異を唱えた。
「武士(もののふ)とは、只でさえ人を殺めねば立ち行かぬ業深き身にございます。人を斬った血の穢れが、いずれ我が身に返るは必定の事。
 神子殿の慈悲深き御心は有り難く存じますが、どうか私に触れては下さいますな。貴女の手にまで、この穢れを及ぼしたくはないのです」
「……そんな……」
 ふるり、と澄んだ虹彩が揺れる。何かを堪えるように自分の胸元を掴む少女の指先が、小刻みに震えている。
 悲哀に満ちたその面差しを見ていられなくて、頼忠は目を伏せた。彼が自分を蔑むような言葉を口にするたび、花梨はいつもそれを己の事のように憤り、時に涙すら見せるのだ。主がそれほどまでに一介の臣下に心を砕いてくれるのは面映くもあるが、それ以上に   酷く、重い。

       嗚呼。
 貴女はこの穢れを知ったなら、一体どう思われるのか   .

「神子殿。私は……っ、」
    ずきり、
 無意識に面を上げ、掠れた声で後を継ごうとした刹那、背の刀創が悲鳴を上げる。その激痛で、男ははっと我に返る。
「あ……」
 途端、ぎり、と奥歯を噛みしめる耳障りな音が、項の後ろに抜けていった。
    自分は今何を言おうとしたのか。
    愚かしい過去の罪業を、今更花梨の前で告解でもしてみせるつもりだったのか。
 肌にまざまざと残る醜い古傷を見せつけて、これが穢れの証だと、だから自分に触れてくれるなと、主に向けて懇願でもしようとしていたのか   
(……馬鹿な)
 例えそうしたところで、得られるのは自己満足にもならぬ苦い後悔だけだ。己が軽挙は心優しい少女を哀しませ、徒に悩ませるだけだろう。
 何故、一瞬でも全てを吐露してしまいたい誘惑にかられたのか、その理由は頼忠自身にすら分からなかった。
「……私、は」
 口に出来たのはその一言だけで、結局、続きは言葉にはならぬ。言い淀んだまま、じっと自身の膝を見下ろしていると、濡れた前髪から垂れる雫が、ひたひたと床に滴り落ちていくのが見えた。
 ……涙のようだ。
 そんな事を、自嘲気味に独りごちる。泣く事など忘れてしまってから、もう随分経つというのに。
「頼忠……さん?」
「……何でもございません。失礼致しました」
 暫くの逡巡の後、躊躇いがちに彼の名を呼ぶ花梨に、頼忠は常と変わらぬ声色で応じた。居住まいを正し、きっと背筋を伸ばすと、源氏の武士は淡々とした口調で己の主に道理を言い含める。
「神子殿は、京を守護する竜神に選ばれた清らかな御方にございます。その御手、その御身にただひとつの穢れも寄せつけぬよう、貴女を守るのが我等八葉の務め。
 ですから、どうか   どうか、お聞き分け下さいませ」
「だから、どうしてそう……っ!」
 頑強に言い張る頼忠に対し、遂に苛立ちが臨界を超えたのだろうか。少女の声が唐突に荒らげられた。思わず息を飲んで花梨を見上げると、彼女は下瞼に薄く涙を溜め、可憐な顔貌を強張らせて、厳しく頼忠を睨みつけていた。
「清浄とか、清らかとか……わたしのこと、そんなふうに決めつけないで!」
「誠の事です。御身が尊く清らかであらねば、そも竜神に神子として見初められる事など無かった筈。それが何よりの証でございましょう」
「違います……違いますっ! もう、なんで分かってくれないんですか!」
 癇癪を起こした子供のように、花梨が拳を床に叩きつける。湿気た木板が、どん、どんと鈍くくぐもった軋みを上げる。
 元々喜怒哀楽のはっきりした少女ではあるが、ここまで彼女が怒気をあらわにするのは滅多に無い。二度、三度と容赦なく床に落とされる小さな拳を包み込もうと、手を伸ばしかけたものの、結局それは花梨に触れる事無く、彼女の眼前で固く握りしめられた。
「申し訳ございません。臣下の身も弁えず、差し出た事を申し上げました。
 されど神子殿、そのような真似はどうかお止め下さい。床板が傷んでおりますゆえ、刺が刺さってしまいます」
「……っ……う、……っ……」
 抑揚無く窘める頼忠の言葉に、花梨はようようと動きを止めた。こぼれ落ちそうに溜まっていた涙を、ごしごしと両手で拭い取ると、彼女は真っ向から頼忠を見つめてくる。
 目が赤い。頬もうっすらと薄紅に染まっている。駄々をこねた童の泣き顔のようであるのに、その双眸だけが挑むように強く鋭い。
 花梨は深呼吸をして息を整えると、改めて口を開いた。
「わ、わたしだって、普通の女の子なんです。尊いだとか清らかだなんて、そんなふうに頼忠さんに思ってもらえるような存在じゃないんです。
 今だってこうやって怒ってるし、巧くいかないとイライラもするし、人を傷つけた事だってあるもの。
 みんなにまだ神子だって認めてもらえなかった頃は、すごくつらかった。頭に来たことも一度や二度じゃなかったし……正直言えば、皆を恨んだこともあったと思う……っ、」
 ひっく、としゃくり上げるように、少女が一度言葉を切る。頼忠が口を挟むより早く、花梨は後を続けた。
「頼忠さんが背負ってるものが、わたしなんかと比べ物にならないくらい重いものだって事は、それなりに分かってるつもりです。勿論、わたしが考えてるより、それはずっと大変なことなんだろうけど……。
 でもね、わたしも、弱いところや汚れたところもいっぱいある、当たり前の人間なんです。
 だから、お願い。そんなふうに、わたしを見ないで」
 お願いです、と。囁くような声で、花梨はもう一度繰り返した。彼女の必死の訴えに、何と返して良いか分からず、頼忠はただ、飽きるほど紡いだ謝意の文句を言い募る。
「申し訳……ございません」
「謝って欲しいわけじゃないの。責めてるのでもなくて……ただ、わたしもごくありふれた女の子に過ぎないって、頼忠さんにも分かって欲しいだけです」
「それは   
 頼忠は吐息をついて、曖昧にかぶりを振った。
 涙ぐむ主を慰める為の語彙も、意味の無い適当な相槌さえも頭に浮かばない。せめて、もう僅かなりと彼が能弁であったなら、ささくれ立った少女の気を宥める事くらいは出来ただろうに。
 ただ、違うのだ   と、漠然とそう思った。
 花梨の自分自身に対する認識は、決定的に誤っている訳ではないが、やはり何処かで違うのだ。
 彼女は気づいていない。花が花の美しさを知らぬように、雪が雪の白さに染まらぬように、花梨は自分の清らかさの本質をまるで分かっていない。
 その心に清濁を併せ持つのは、確かに人の在り方だ。花梨とて例外では無いだろう。己を認めぬ者たちに立腹し、恨んだ事すらある   という今の言葉も、偽りのものとは思えぬ。どれほど清浄な存在であっても、人の身である限り、そこに一滴の濁も混じらぬという事はあり得ない。
(……だが)
 そうではないのです、神子殿   と、声に出さず、彼は唇だけで呟いた。
    朽ちてゆく数多の荒屋。
    跋扈する魑魅魍魎の群れ。
    滅びに魅入られた寂寞の都。
 人心乱れ、政情も安定せず、見渡す限り荒れ果てたこの末法の世に在りながら、彼女は決してその流れに飲まれる事は無かった。時に膝を折り、時に涙をこぼし、時に激昂する事もあったが、花梨は変わることなく、彼女の言う『普通の少女』であり続けた。
 それがどれほど尊く困難なことか。戦事に生きる武士(もののふ)だからこそ、頼忠には良く判る。
 争いの渦中に身を置いて尚、濁りに染まらず、本来持っている心の清さを守る事の難しさ。その事実を、当の花梨だけが理解していない。

 濁を持たぬから、清らかだと言うのではない。
 濁に流されないからこそ、彼女は誰よりも清らかな人のだ。

(そうだ。
 貴女は変わらない。初めて会った時も、今も   ずっと)
 糺の森での邂逅から今に至るまで、彼女の優しく真っ直ぐな心はそのままだ。一番傍で花梨を見てきたから、男はその事を良く知っている。
 心無い疑念に晒されても歪まなかった少女は、力を得て神子と認められた後も、その謙虚さや素直さを見失わない。初め彼女を信じなかった者たちを詰っても良さそうなものなのに、それをすらしようとしない。少しでも花梨の恨み言らしきものを聞いたのは、今この時が初めてだ。
 人は皆、力を持てば驕るのだ。他ならぬ頼忠自身がそうだった。
 己が彼女と同じ年頃だった時、彼は自分の力を錯覚していた。身の程を過信し、その結果取り返しのつかぬ過誤を犯した、花梨よりもずっと愚かな子供だった。

    それが、穢れ。
 今も消えぬ、咎人の証に他ならぬ。

 あれから十余年の年を経たが、己の本質は浅はかだったあの頃と同じなのではないかと、頼忠はそれを恐れている。
 自己を厳しく律し、どれだけ心技を磨く事に務めようとも、それはただ表向きだけの事。人を殺め続けた太刀が、いつしかその表層を血曇りで塗り固めていくように、どれだけ精進を重ねても、この身に積もる穢れを拭う事は出来ない。
 彼女の話してくれた、自ら血糊を雪ぐ異界の太刀でもない限り   .

    いや、或いは。
 穢れを払う水気の神刀とは、花梨自身の写し身でもあるのだろうか。
 如何に血を浴びても染まる事無く、余人に汚す事の出来ぬ凛とした刃。

 その姿は、少女のそれに良く似ている気がした。


◆     ◆     ◆


 どれだけの間そうしていただろうか。
 少女の唇から途切れ途切れに漏れていた嗚咽は、やがてゆっくりと微かになり、雨音に紛れて消えていった。それにつれて漸く落ち着きを取り戻し始めたのか、花梨がおずおずと面を起こして頼忠に視線を向ける。
 目が合うと、彼女ははにかんだように笑ってみせた。その笑顔はややぎこちなく、瞼も腫れぼったかったが、胸につかえていた事を全て吐き出した所為で、幾らか感情にも整理がついたらしい。
「ごめんなさい、ちょっと言い過ぎました。
 元はと言えば、わたしが考えなしに失礼なことしちゃった所為ですよね」
「いえ、そのような事は決して。
 神子殿が謝られるようなことは、何もございません」
 型通り生真面目に応じる頼忠に、花梨は今度こそ屈託のない笑みをこぼす。
「頼忠さんってば。それじゃ、また堂々巡りになっちゃいますよ。
 だからもう、このお話はここまでって事にしましょう。ね?」
「……はい」
 ぱん、と雰囲気を切り換えるように、彼女は小さな掌を打ち鳴らした。桜色の爪びらに溜まった雨露が、弾けて白い飛沫を散らす。
 花梨はそれですっかり気持ちを収めたようだったが、頼忠はそうはならなかった。心は酷くささくれ立ったまま、じくりと生乾きの傷を抉られるような鈍痛が、今も体中を苛んでいる。
 手足の末端は固く冷えているのに、腹の中心だけが火照っていて熱い。寒暖の感覚が混ざり合い、ざわざわと身の毛が逆立つような悪寒は、彼が知るどの情動にも似ているようで、しかし微妙に違っている。強いて言えば   そう、人を斬り殺した後、醒めやらぬ衝動を吐き出そうと性急に女肌を求める時の、あの冷え切った興奮に近い。
 行きずりの遊び女にそうするように、少女の華奢な首筋をかき抱いて、欲望のまま強く歯を立てたなら、如何なる味がするものだろうか。それは、顔も思い出せぬ一夜限りの相手と同じなのか。それとももっと、舌を灼くほどに狂おしく甘いのか   手を伸ばせばすぐに確かめられる距離に、彼女は     .
(……馬鹿な。神子殿相手に、そのような浅ましい思いを抱くなど……っ)
 不意に脳裏を掠めた自分の考えに戦慄すら覚えて、頼忠は肩を震わせた。男慣れた遊女との情事に、あろうことか清浄な神子の姿を重ねるなど、思うだけでもあってはならぬ不敬だというのに。
 きっと、何もかもこの嵐の所為だろう。雨水に濡れた刀創はずきずきと疼き、その痛みに引きずられて、思考が昏い方向へと転がり落ちてしまうのだ。
 僅かなりとも雨足が弱まったら、早々にこの荒屋を立ち去るべきだろう。そうしなければ、溜まりたまった鬱屈が、己の感情を何処へ誘(いざな)っていくのか分かったものではない。
 はぁ、と吐息をつくと、頼忠は前髪から目に落ちかかる雫を無造作に払った。と、一度距離を取った筈の花梨の顔が、また近くに寄せられているのに気がついて、彼はぎょっと切れ長の瞳を見開く。
「神子殿?」
 彼を心配げに覗き込んでいた幼い主は、頼忠の声に反応して、遠慮がちに少し身を離した。
「頼忠さん、やっぱりその着物、一度脱いで乾かした方がいいと思います。じゃなきゃ、せめて、水だけでも絞った方が……。
 濡れっぱなしの服着てると、体温取られちゃって体に良くないですよ」
「……は?」
「あ、わたしはそっち向いてますから、わたしの事は気にしないで下さいね。
 終わったら声かけてくれますか?」
「……神子殿……」
 眩暈がする。
 花梨は、どうして頼忠があれほど強く彼女の手を拒んだのか、まったく分かっていないのだ。あまりにも無垢に、無邪気に、自身に対し向けられる主の好意に、呆れを通り越して、激しい苛立ちすらこみ上げてくる。
 絶句した頼忠を尻目に、ささやかな衣擦れの音を立てて、言葉通り花梨は彼に背を向けた。
 藍染色の布地に包まれた少女の背中。短く切り揃えられた襟足から、片手で括れそうなほど細い項が覗いている。
    いつしか、口蓋がからからに渇いていた。懸命に生唾を飲み込んで喉を湿そうとするが、一滴の唾液も出てこない。
 声も無くその白い造形を凝視していると、水を含む髪束から落ちた露が、またひとしずく、彼女の服の中へと滴り流れていく。
(ああ   
 その途端、舌先に生まれる確かな水の味。
 一度は目を逸らしてやり過ごしたその甘露を、餓えた今の体は拒めなかった。ただその雫を吸いたくて、火のついたように熱い喉を潤したくて、頼忠は無意識に少女の背後へといざり寄る。
「頼忠、さん? どうかしたの   
 不穏な気配に花梨が振り返るより早く。
 男は、濡れた主の首筋に、きつく唇を押し当てていた。


 己を律するに例え千日かかるとも、臨界を越えるのは僅か一瞬。
 雁字搦めの鎖を引きちぎって、凶暴な獣が牙を剥く。


 ……甘い。
 最初に感じたのは、蕩けるような蜜の味。
 花梨の素肌を落ちるそれは、色も匂いも持たぬただの水だ。その筈なのに、味蕾に広がる感触は、仄かな甘さを帯びている。
 鼻先を寄せた襟足から、彼女の纏う梅花が薫る。雨に溶かされて濃厚さを増した香は、いつもの可憐さを裏切って、男を誘うように艶かしく匂い立つ。
「……え!? ち、ちょっと、何してるの……っ!?」
 一瞬、頼忠に何をされたのか良く分からなかったのだろう。驚きの声は、二呼吸を置いて唐突に上がった。
 剥き出しの項に口づけられたのだ、と理解した瞬間、柔らかかった体の線が一気に強張る。
「やだ……っ!」
 そのまま彼女は身を返して、男の唇から逃れようと勢い良く上半身を捩った。
 思いの外素早い挙動で彼から離れようとする花梨の手首を掴むと、そのまま体重を乗せて、頼忠は半ば突き崩すように少女の体を壁へと押しつけた。二人分の重みを受けて、脆くなった壁板が、ぎしりと耳障りな軋みを立てる。
「あ……」
 大きな瞳が、正円に瞠られる。虹彩に浮かぶのは、恐怖ではなく驚きの色だ。それは取りも直さず、この期に及んでも尚、荒れ狂う頼忠の心中を花梨がくみ取れずにいる事を意味していた。
「貴女は、何処まで私を試されるおつもりか」
 慇懃ではあるが、それでいて酷く冷やかな声が紡がれる。切り口上な語尾は、いっそ主に対する不敬ともとれる傲岸さだ。滅多に耳にする事の無い頼忠の言葉に、花梨はびくりと小さく肩を震わせる。
「た、試す、って……なんの事ですか?」
 予想通りの彼女の返事に、男は声を立てて嘲笑い出したくなった。そうする代わりに、頼忠は花梨の翠玉を覗き込み、掠れた響きで譫言(うわごと)を綴る。
「神子殿   この場には今、貴女と私の二人しか居ないのです。
 そのような状況で、貴女は私に着物を脱げと、いとも易く仰られる。そればかりか、手ずから男(わたし)の襟を乱されるなど   貴女は、その意味を誠に分かっておいでか」
「……っ……!」
 そう囁きを落とすと、彼女の頬にさっと一面の朱が散った。
 事ここに至って、花梨はようやっと、頼忠をあれほどまでに狼狽させたものの正体を理解したのだ。実齢よりも些か幼げな感のあるこの少女は、自分より十以上も年嵩の男に、己の行為がそのような色を以て受け取られるなど思ってもみなかったのだろう。
    嗚呼。
 その清らかさは、時にどうしようもない愚かさとなる。
 哀れにも取り乱し、あの、あの、と、意味も無い呼びかけを繰り返す花梨に、頼忠は薄く目を細めた。そうすると、精悍で男らしい彼の顔貌は、ひどく酷薄な印象に変わる。それを眼前に見た花梨の面に、初めて微かな怯えが過り   その小動物じみた表情は、男の邪な衝動をいたく満足させるものだった。
「神子殿、私が恐ろしいですか」
「よ、頼忠……さ、ん……」
 浮かされたように、常の無聊を忘れたように、自分では無い誰かがこの口を借りて喋ってでもいるかのように、止めどなく頼忠の恨み言は続く。もはや言葉というよりそれは、膨れ上がった重い感情が、未消化のまま吐露された心の断片だった。
「一つ家の下で、あのような振る舞いを男(わたし)に掛けるなど、貴女はあまりに浅慮に過ぎる。
 それとも神子殿は、貴女の手に触れられて私が何を思うのか、まさか本当に気づかなかったと? 私の思いなど、何一つ省みられる事は無かったと、貴女はそう仰るのですか?」
 畳みかけるような男の詰問に、遂に花梨は言葉を失った。
 舌なめずりする捕食者の眼差しで己が主を見下ろしながら、頼忠は冷えた言の葉をゆっくりと告げる   .

「もしそうだと言うのなら、貴女は   あまりに、残酷だ」

 花梨の体が、ぐらりと大きく傾いだ。
 頼忠の無慈悲な宣告に、真中から芯が折れてしまったように、少女は力無くくず折れる。咄嗟に腕を回して抱き留めると、しっとりとした柔らかな重みが胸にもたれ掛かった。
「……あ、」
 濡れて冷えた唇が小刻みに痙攣している。まるで、幼子が泣き出す前兆のようなその戦き。だが花梨は涙を零す代わりに、ようようと声を振り絞って、痛々しい詫びの言葉を紡ぎ出した。
「……ごめん、なさい……」
      
 玻璃細工じみた指先が、頼忠の纏う薄紫の小袖をぎゅっと掴む。だが一瞬の後、少女は怯えたようにその手を放して、自分自身の胸元を強く握りしめた。
 素肌に張りついた藍染の布に、ひび割れのように浮かび上がる無数の襞。
「ごめんなさい……わたし、そんなつもりじゃ……」
 ああ、そうだろう。   そうだろうとも。
 苦い自嘲と共に、青年は深く瞑目する。
 そんな事は、今更言われずとも分かっている。花梨にその意志が無いどころか、彼女はその振る舞いが頼忠にあらぬ誤解を与える事すら、碌に理解してはいなかった。しなやかな指で襟を開き、そうして男を誘う手管を花梨が知っていると言うならば、己とて彼女のすべてを奪う事をこうまで躊躇いはすまい。
 少女は純粋に、臣下である武士の身を案じていただけだ。そこに浅ましい色を塗りたくり、身勝手な我欲を押しつけたのは彼の方だ。
    花梨はどこまでも清らかで、ただ一途に優しい。
 そしてきっと、自分はそれが何より腹立たしかったのだろう。
 彼に触れた花梨の指先に、何の後ろめたさも無い事が嫌だった。その翠玉の瞳に、一点の疚しさも無い事が不快だった。二人きりの仮宿で、じりじりと身の内を灼く焔に悶えているのが、自分一人だけである事が許せなかった。頼忠の鎖骨を掠めたその指先に、僅かでも彼と同じ温度の熱が灯っていたなら、このようにまで凶暴な心持ちにはならなかっただろうに。
 或いは、それすらも男の一方的な言い分に過ぎぬのか   .
(……つくづく、報われぬ)
 く、と、常の彼を知る者ならば、目を見張らずにはいられぬような冷えた笑みが、頼忠の唇をいびつに歪める。紫紺の瞳はますます鋭く細められ、口許だけが薄寒い嘲笑を張りつけている様は、元々が端正な容貌である事も相まって、余人の心胆を寒からしめずにはいられぬ凶相であった。果して花梨は、おずおずと顔を上げて頼忠と視線を絡めた瞬間、びくりと全身を硬直させる。

 震えている。
 怖えている。

 なんと、愛しい。   なんと、哀れな、
 羽根の折れた小鳥のように、弱々しく脅えるひと。

 命に代えても守るべき主が、僅か膂力に物を言わせるだけで易く手折れる少女の身である事を不意に思い出して、ぞっと冷たいものが男の背筋を駆け抜けた。
 昏い誘(いざな)いに傾いていく彼の心中を知らず、花梨はうっすら湿った睫毛を瞬かせて、上目遣いに頼忠を見る。
「あの……頼忠さん。わたしも、今度からはちゃんと気をつけるから……。
 だから、……その、放してくれませんか?」
 小さな微笑みが、彼女の唇を緩ませた。
 だが、どれほど表情を取り繕おうとしても、口の端に蟠る微かな引きつれは隠しようもない。
 素直過ぎるほどに真っ直ぐな少女は、元より感情を押し殺すのが巧い人柄では無いのだ。未だに胸元をきつく掴んだままの指先の白さが、彼女の抱いている混乱と怯えを明確に示している。
 頼忠が無言のまま少女を凝視する視線を感じてか、花梨はもう一度、あはは、とわざとらしく声を立てて笑った。
 その響きに、緊迫した雰囲気を誤魔化し、何事も無かったように場を収めようとする少女の思惑がありありと感じ取れて   .

 ざ、と血が逆流する音が聞こえた。

      ように」
「……え?」
 歯軋りにも似た頼忠の呻きは、花梨の耳には届かなかったらしい。獣のような低い笑い声を上げると、彼は一層強く少女の体を背後の壁に押しつけた。
「まだ、そのように笑っておられる余裕がお有りなのですね」
 言葉こそ臣下のそれだが、頼忠の振る舞いは、主に対して彼が遵守すべき礼をとうに逸している。腕ずくで主の身を戒めるなど、よほど危険が迫っている時でもない限り、従者には許されぬ暴挙だ。だが今の頼忠には、己の無礼を省みる気などもはや残されていない。
 両腕で花梨の体を囲い込み、真上から覆い被る恰好で彼女を見下ろすと、形の良い指先が、控えめな胸の膨らみの上で強張っているのが目に入った。
 知らず、ごくり、と喉が鳴る。
「今の私が、どれほど貴女に浅ましい思いを抱いているのかを知れば   神子殿とて、いつまでもそのように微笑んではおられまい」
「あさ   ましい、って……」
 殆ど消え入るような少女の声に答える事無く、自身の胸元を掴む花梨の手に、頼忠はそっと自分の掌を添えた。
 触れるか触れないかの、ぎりぎりの距離。
 貝殻のように小さな花梨の手は、二回りも大きい頼忠の掌にすっぽりと包み込まれてしまう。このまま力を入れて握り潰せば、簡単に骨を砕く事も出来るだろう   と、埒も無い考えが泡のように浮かんでは、いつまでも思考の狭間をゆらゆらとたゆたい続ける。
「神子殿   
 男の呼びかけに、花梨は返事をしない。   いや、出来ないのか。戸惑いに揺れる翠玉が、自分の手を包む頼忠のそれを、ただ呆然と見つめている。
 やがて。
 あえて残していた皮一枚の隙間が、互いの体熱と湿度に溶けて、どちらからとも無く吸いついていく。
 ぴとり、と濡れた感触が肌に伝わった瞬間、こみ上げた衝動が堰を切って溢れ出た。
「……あっ!」
 花梨の手をぐいと強く引き寄せて、その小指に歯を立てる。彼女の体が大きく跳ね、頼忠の拘束から逃れようとする動きを見せたが、鍛え上げた肉体を持つ武士の前では、そんな抗いは児戯に等しい。腕力に訴えるまでも無く、僅かに体重を掛けてやるだけで、頼忠はあっさりと花梨の抵抗を封じ込めた。
 そのまま、細い小指にねっとりと舌を這わす。根元から付け根まで、じっくりと時間をかけて舐め上げると、桜色の爪に舌先を絡ませ、音を立てて強く吸った。
    じゅぷり、
 清(さや)かな雨垂れの響きとはかけ離れた、あまりに淫らな水音が落ちる。
「や、だ……頼忠さん、やめて……っ!」
 必死で制止する花梨の口調も、いつしか不揃いに乱れ始めていた。ぜいぜいと荒くなる呼吸の狭間で、途切れ途切れに上がる啼き声がひどく悩ましい。
 少女の指を咥えたまま、頼忠はちらりと彼女を一瞥する。自分の小指を舐めしゃぶる男の顔を見て、花梨の頬に嫌悪とも羞恥ともつかぬ血の色が散る。常は過剰なほど禁欲的なこの男に、あからさまな劣情の証を見せつけられるのが、たまらなく嫌なのだろう。
「……ずっと、その声をお聞きしとうございました」
 ぽつり、と。
 くぐもった呟きが零れた。
 不明瞭な声色に、え、と花梨が聞き返すが、頼忠はもう無為に話を続ける気は無かった。今は言葉を言い交わすより、この甘美な血肉の味を思うさま噛みしめたい。
 つう、と指を伝ってゆく、涎とも雨水ともつかぬ透明な汁を追って、舌を滑らせる。指の股に溜まった雫を、舌先を尖らせて舐め取ると、ぴくり、と少女の喉がのけ反った。
「あ……う、いやだ……っ、いや   離し、て」
 か細い嘆きが拒絶を紡ぐ。
 常なら一も二も無く従う主の命。だが今の彼には、花梨の言葉など、もはや何の意味も持たぬただの啼き声にしか聞こえない。
 ぬるり、と口蓋の奥にまで少女の小指を咥え込むと、頼忠はそのしなやかな造形に舌を絡ませた。
「……あつ……い、頼忠さん……」
 片手で彼女の肩をしっかりと抱きかかえながら、彼は尚も夢中で少女の指を貪り続けた。
 深く花梨の指を飲み込んだまま、やや強めに歯を立ててみる。そうすると、瑞々しい肉の弾力が、ぐっと彼の犬歯を押し返してきた。
 顎に力を入れ過ぎた所為で、痛みを与えてしまったのだろうか。頼忠の唇の中で、僅かに花梨の小指が痙攣し、ふっと折り曲げられるのを感じる。その弾みに、男の味蕾が花梨の指でざらりと撫で上げられ、まるで彼女の指に口中を愛撫されているような錯覚がゾクゾクと背筋を駆け抜けた。
「神子殿……神子、殿   
 興奮が眩暈を連れてくる。きつく目を閉じて視界を遮ると、今口づけているのが小指の一差しではなく、花梨のもっとも秘められた小さな尖りを啜っているような気さえした。
 甘噛み、しゃぶり、唾液をまとわせては、音を立てて吸い上げる。肉の歯応えを求め、牙を立てて齧りつく。
 こんなものは、人の男女が営む情交の有り様とも思えぬ。まるで、発情したケダモノそのものの所作ではないか。己が魂の半身が、頼忠の事を『源氏の犬』と嘲っていたのも宜なるかなだ。
(……そうだ。私は   
 所詮、己が本質は血肉に飢えた狗犬(ケダモノ)なのだ。
 武士(もののふ)と言う名の軛を嵌められ、十重二十重に鎖に繋がれて、自分は漸く人間の真似事が出来る歪な生き物なのだろう。それらの戒めをすべて外されれば、後に残るのは野卑で獰猛な獣に過ぎぬ。
 ああ   だが、もうそれでも構わない。
 ならばいっそ、ケモノならケモノらしく、涙目で怯えるこの哀れな獲物を食らい尽くしてやればいい。
「んっ……、く……!」
 小指だけでは飽き足りなくなって、頼忠は彼女の指先すべてに歯を立てる。赤い跡が残るほどきつく噛みしめ、滴る唾液をなすり付けては、淫らな水音を唇に含ませて舐めさすった。
 五枚の爪から雨の残り香が消え、代わりにたっぷりと男の匂いをしみ込ませてから、彼はやっと少女の指先を解放する。
 つう、と垂れ落ちた銀の雫が、頼忠の唇と花梨の指先に儚い糸をかけた。
「ど……して、こんな……」
 熱く息を弾ませながら、少女はうつろに呟く。
 見下ろす花梨の頬は真っ赤に染まり、目尻に透明な涙が溜まっていた。頼忠の熱に溶かされた片手をきゅっと握りしめて、身を固くしている様は、可愛らしくも頑だ。今にもこぼれそうな雫を無骨な指先ですくい取ると、彼は火照った少女の耳朶に唇を触れさせる。
「この期に及んで、まだそのような事を問われるのですか?」
「……頼忠、さん?」
「私は、ずっと願っておりました。   いえ、願うなどという生温い想いでは無い。気が狂(ふ)れてしまいそうなほど、私は貴女の全てを求めていた。欲していた。
 先刻、神子殿の御手が私の襟を乱された時、私がどのような心持ちを抱いたのか   貴女には、決して分かりますまい」
 吐き出される言葉は、恋情の吐露からはほど遠い、恨み言の連なりだった。掠れた声色が、自分のものではないように響く。
「だから、私は穢れていると申し上げたのです。私に触れてはならぬと、頼忠の事はどうか捨て置かれるよう、神子殿に幾度も忠言した筈です。
    お聞き届け下さらなかったのは、貴女の方だ」
 だから、こうやって男の欲に蹂躪されるのも仕方がないのだ、と。彼女があまりにも無防備に振る舞ったから、これは当然の結末なのだと。
 それを卑怯な事と知りながら、頼忠は花梨の逃げ道を一つずつ潰していく。少女が堕ちゆく先が、もう彼の腕の中しか残らぬように。
 くったりとしなる柔らかい体を膝の上に抱え直すと、頼忠はもう一度花梨の手を取って、その指先に口づけを落とした。先程の愛撫で敏感になっているらしい少女の体は、軽い接吻にも面白いように反応を返してくる。
「あ……ふぁ、」
「……神子殿の指は、甘いのですね」
 大きな翠玉を覗き込むと、花梨は苦しげに口を半開きにして、早い呼吸を繰り返していた。
 唇の底にねろりと蠢く舌が見えて、清楚な彼女自身の雰囲気とは正反対の艶かしい動きに、そのまま噛みつきたくなる衝動がこみ上げる。

 欲しい。
 欲しい。
 欲しい   .

「指だけでは足りません。私は……もっと、貴女が欲しい」
 幼げな娘であっても、その言の葉に込められた意味は、流石に理解出来たらしい。潤んだ双眸が丸く瞠られ、赤かった頬から一気に血の気が引いた。
「……っ……あ……」
 だが、彼女の喉からまともな言葉は出ない。拒絶こそされなかったが、それは肯いを意味するものでも無い。あまりに性急で露骨な男の求めに、思考が追いつかないだけだろう。
「……神子殿」
 訥々と、だが決して止まる事無く花梨をかき口説く頼忠と、言葉を失ってただ震える少女。いつもとは真逆の構図が、まるで主従の立場すら反転させてしまったかのようだ。
 からからに喉が渇く。
 干上がる口中とは対照的に、傷がずきずきと膿み滴っていく。瞼を伏せると、その裏側を、一筋の赤い流れが滴り落ちていくのが見えた。           
「神子殿は、許して下さいますか? 斯様に浅ましく貴女を思う、この私を」
「………より、ただ……さん」
「この心を知った今となっても、貴女は先程のように、頼忠を穢れていないと仰って下さいますか? 夜毎に待つ貴女の夢の訪いを、現(うつつ)のものとして下さいますか?
    頼忠を、受け入れて下さいますか?」

「もし、そうならば」

 ゆっくりと。
 言葉を切って、頼忠は花梨を見つめる。

「神子殿。どうか   このまま」

 答えを、待ちなどしなかった。
 奪うように乱暴に、少女の唇に口づける。



 さらさらと。
 さらさらと。
 外は止まぬ嵐の気配。

 雨足をかき消すように、ひたすらに音を立てて甘い口吻を貪った。

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