刃雨 1

    雨が降る。

 さあさあと、
 さあさあと、
 止む事を知らず溢れ流るる水の音。

 雨は龍の泪なのだと古人は言う。
 宿業巡る儚い現世を憐れんで、嘆く神の涙滴なのだと。

 雨が   降る。

 さらさらと。
 さらさらと。
 積もり重なる咎人の穢れを、何処までも洗い流すかのように、
    寂寞の都に雨が降る。



◆     ◆     ◆



 晩秋の雨は冷たい。いつ雪に変わってもおかしくないような固い雨粒は、温度も質感も水というより氷のそれだ。衣を通して肌を叩く強い衝撃は、僅かながら痛みすら感じさせる。そうして砕け散り形を失った水滴は、そのまま容赦なく布に染み通り、瞬く間に体温を奪っていく。
「嘘、降ってきちゃった」
 足早に帰路を急いでいた花梨が、歩を止めて天を見上げた。その動きにつられたように、彼女の後ろに付き従っていた大柄な武士も、首を傾けて頭上を仰ぐ。出掛けには見事な秋晴れが広がっていた空には、いつしか鈍色の雲が垂れ込め、気がついた時には、辺りに細かい水煙が立つほどの激しい雨足となっていた。
 この時期の驟雨は、濡れるのが早い分、ある意味で降雪よりも厄介だ。肌に降りかかるのが雪ならば、溶ける前に払い落とせもしようが、水粒ではそうもいかない。ばさりと広げた袖を少女の上に被せると、彼女は慌てたように背後を振り向いた。
「よ、頼忠さん、大丈夫ですから。これじゃ頼忠さんが濡れちゃいます」
「どうぞお気遣い無く。主の身を守るのは、従者の務めにございますゆえ。
 それより神子殿、このまま雨に打たれていては御身に障ります。急がれた方がよろしいかと」
「あ、はいっ」
 素直に頷いた花梨が、頼忠の横に並んで歩を早める。
 貧しい人々が集まって暮らすこの辺りの道は、整備もされておらずかなりの悪路だ。只でさえ邪魔な石や穴が多いのに、雨が降ったとなれば、泥濘が足を絡め捕って走りにくい事この上ない。ばしゃばしゃと跳ねる水溜まりを避けるように少女を誘導しながら、頼忠は頭の中で周囲の地理を思い描いた。
 四条の屋敷までは、まだかなりの距離がある。どんなに急いでも、帰り着くまでに小半時は見るべきだ。この強い雨足の中では、更に時間がかかるかも知れない。
 自分一人ならば、如何に濡れようとさしたる問題でも無いのだが、この幼げな主を冷たい雨に長く晒す訳には行かないだろう。そう判断すると、頼忠は四条への道を逸れ、脇に続く小さな路地へと足を向けた。
    さほど歩かぬうちに、一軒の菰屋が目についた。黒ずんだ板壁が、雨に打たれていっそうその濃さを増している。荒れた壁や屋根の様子から見ても、暫くの間人の手が入っていない事は明白だった。住む人が居なければ、さほど時を置かずして、家屋はその端からゆるゆると朽ちていく。
(……捨て家か)
 もっとも、本来の家人が捨てた家であっても、夜盗やごろつき共など、物騒な輩の塒になっている可能性はある。頼忠は少女を庇うように先に立ち、家屋の入り口から慎重に内の様子を伺った。
 やはり、人の気配は感じられない。それを確認して、彼は漸く扉を開き、素早く中に滑り込んで周囲を見渡した。
 誰も、居ない。
 しんと静まり返った脱け殻のような家の中に、幾つもの雨漏りの音だけが響いている。
「神子殿、どうぞお入り下さい。こちらで暫く雨足を遣り過ごしましょう」
「あ……はい」
 花梨は頷いて、ひょこっと入り口から室内を覗き込んだ。小動物が周囲を見回すしぐさとそっくりなその挙措は愛らしかったが、何故か彼女がそれ以上足を踏み入れてくる気配は無い。少女は困ったように眉を寄せて、ただ視線ばかりを室内に彷徨わせている。
 彼女の躊躇いを、頼忠は潔癖さからの嫌悪によるものと理解した。四条の屋敷に身を置き、華美な調度に囲まれて暮らしている花梨にとって、このような狭い菰家で過ごすのは、僅かな時でも耐え難いものなのだろうか。
「斯様な場所では、神子殿が休まれるには相応しくないと存じますが   どうか、暫しご辛抱下さいませ。一時(いっとき)、雨が弱まるまでの事ですので」
「あ、違うんです。そういうんじゃなくて、その……入っちゃっていいのかなって」
「は?」
「だってここ、他の人のおうちでしょ? 勝手に入っちゃったら失礼じゃない?」
 頼忠は微かに目を見張った。まさか、花梨の懸念がそのような所にあるとは夢にも思わなかったからだ。小首をかしげ、これって不法進入じゃないのかなぁ、と、良く分からない言葉を呟く少女に向け、武士は彼(か)の陰陽師のような口調で、花梨の困惑をやんわりと取り除く。
「問題ございません。この様子では、家人がこの場を去ってより、それなりに経っているかと。
 そも、この界隈には、こうした朽家が幾つもございます。一時我等が間借りしたとしても、誰も咎め立てする者など居りませぬ」
 彼の言葉通り、今の京では、こうした廃屋などごくありふれた存在だ。特に、この辺りのような貧しい地域では、少し道を逸れて路地に入れば、幾つも見つける事が出来る。実際、頼忠自身もそれを知っていたが故に、四条に帰るよりも、近くの廃屋を探して雨宿りする事を選んだのだから。
「そうなんですか?」
「ええ   まあ」
 実直な武士らしくも無く曖昧に濁した語尾に、何を感じ取ったのか。花梨は澄んだ翠玉の瞳を瞬かせたが、それ以上押して尋ねてくる事は無かった。
 そう、今更珍しくもない。主を喪くして、後はただ腐り落ちていくだけの菰家など。
 未だ穢れが蔓延するこの都から、自分の意志で離れた者も中には居るだろうが、家が住人を失う理由はそればかりではない。
 疫病に倒れ、為す術も無いまま命を落とした者。或いは野盗に押し込まれ、僅かばかりの身銭と引き換えに惨殺される者。そうして、弔われる事さえ無い亡骸を胎に抱えたまま、諸共に朽ち果ててゆく家屋も少なくはないのだから。そうした死臭がこびりついていないだけ、この廃家はまだましと言うものだろう。
「神子殿、こちらへ」
 重ねてやや強めに促すと、花梨は漸く頼忠の言葉を諾したようだった。
「……じゃあ、えっと、お邪魔します」
 とうに居なくなった住人の影にか、それとも彼らに見捨てられたこの菰家にだろうか。少女は律儀に一礼をして、恐る恐る中に足を踏み入れる。
「奥には行かれませぬよう。床板が朽ちておりますゆえ、危のうございます」
「はい」
 彼の指示に従って、花梨はおとなしく入り口側の壁際に座る。菰家の扉を立てかけ、風雨が入り込むのを幾ばくかでも防ぐと、頼忠は背後でごそごそと身動きする少女に声を掛けた。
「暫しお待ちください。直ぐに火を起こします」
 幸い、地火炉の周囲はそれほど傷みが酷くなく、十分に使えそうだった。懐から小柄を取り出し、朽ちた床板の表皮を剥ぎ取って、乾いた部分の木肌をささくれ立たせる。細かく割ったそれらの板切れを、即席の薪として地火炉の中に積み上げた。
 熟艾代わりに懐紙を千切り、細く縒っては木端の間に幾つもねじ込む。火打ち鉄を何度か打ちつけ、紙縒りの一本に火を灯すと、彼はそれを火種として懐紙から薪に炎を移していった。
 床板が湿っていた所為もあってか、中々燃え難かったものの、暫くすると徐々にチロチロと赤い炎が上がり始める。火が十分に大きくなった事を見計らって、頼忠は花梨の方を振り向いた。
「神子殿   
 彼女を火の側へ誘(いざな)おうとした声が、不意にざっくりと断ち切られる。
 背後の少女は濡れた水干を脱ぎ、両腕で固くそれを絞っているところだったのだ。
 しとしとと垂れる水滴が、床に幾つも冷たい染みを広げていく。じわりじわりと黒く周囲を濡らしていくそれは、全き水である筈なのに、何故か血の跡のようにも見える。
 水干を脱いでしまうと、花梨の纏っているものは、この京では見ないようなぴったりとした濃紺の上衣と、冗談のように短い袴だけだ。只でさえ体の線に添うような作りであるのに、水を吸ってしまった所為で、頼忠の目には、少女のあらわな肉のかたちまでもが見て取れる。
 ひどく華奢で、作り物めいた骨格。
 白く浮かび上がる項を、すうと一筋の水滴が流れ落ちていった。ふと、舌先にある筈も無い水の味を感じて、頼忠は言い知れぬ疚しさに目を背ける。
 花梨に気取られぬよう、深くため息をついて呼吸を整えると、彼は静かな声で少女を呼んだ。
「神子殿、火の側にお寄り下さい。そのままでは、咳(がい)を召してしまわれます」
「あ、はい。ありがとうございます」
 少女は黒い上衣一枚のまま、もぞもぞと頼忠の横に寄ってきた。地火炉の真上に手を翳そうとする花梨を止めて、余熱が届く程度の位置に座らせる。
「湿気た薪が混ざっておりますので、あまり近づくと火が爆ぜます。お気をつけ下さい」
「ああ、生木って燃やすと弾けますよね。キャンプファイヤーの時、それで火傷しそうになった事あったなぁ」
 無邪気な笑い声をたてて、彼女は少し離れた場所から炎に当たる。ゆらゆらと揺らめく炎に、花梨の横顔が不安定に色を変える。それは時に楽しげに、時に悲しそうに、時にぞっとするほど艶やかに   
「頼忠さん? どうかしたの?」
      
「ねえ、頼忠さんってば。大丈夫?」
 ふと、不安げに自分を覗き込む少女の視線を感じて、彼は我に返った。目を遣れば、花梨が直ぐ隣に寄り添って、心配そうにこちらを見上げている。どうやら自分は随分と長いこと、ただ押し黙って花梨を眺めていたようだった。これでは、彼女が不審に思うのも無理は無い。
「ひょっとして、どこか具合でも悪いんですか?」
「いえ   
 頼忠はかぶりを振った。大丈夫です、という自分の言葉が、誰か見知らぬ者の空言のように響く。花梨はあまり納得していないようだったが、彼は敢えて言葉を重ねる事はしなかった。
 再び訪れた静寂を、雨の音だけが埋めていく。
 互いの呼吸が、音ではなく動きで感じられるほどの距離。これほど側で見ると、花梨の濡れ髪から、未だにぽたぽたと絶え間なく水が滴っているのがはっきりと分かる。頬は薄く青ざめていて、自分の体を抱きしめる指先も血の気が無い。
 よほど、寒いのだろう。我慢強い彼女は、自らそれを口にする事はしないのだろうが。
「申し訳ございませんでした」
 前触れもなく頭を下げると、花梨は驚いたように勢い良く面を上げた。
「え? ええと、なんか謝られるようなことしましたっけ?」
「早めに探索を切り上げられるよう、進言すべきでございました。神子殿の大切な御身を、斯様に雨晒しにしてしまうなど   
「そんなの、頼忠さんのせいじゃないですよ。大体、今日の探索だってわたしが行くって言い張ったんですし、どっちかって言えばわたしの所為じゃないですか」
 今朝方は天候にこそ恵まれており、花梨も張り切っていたのだが、彼女のやる気とは裏腹に、珍しく殆どの八葉が揃わなかったのだ。皆、仕事や諸事でどうしても場を外す事が出来ず、終日供に付ける者は頼忠一人と分かった時点で、紫姫は花梨たちを送り出すのを随分躊躇っていたようだった。あの聡明な姫君は、大事な神子の事に限ってはひどく心配性なのである。
 結局、『あまり危ないところには行かないから』と紫姫を押し切った花梨が、頼忠を連れ出した形になったのだから、花梨の言う事は間違ってはいない。
 間違ってはいない   が。
「むしろ、わたしが頼忠さんに迷惑かけちゃってますよね。ごめんなさい」
「いえ   神子殿が詫びられるような事ではございません」
 主である花梨に、こうして深々と謝られると、頼忠としてはどうにも困惑させられてしまう。それも、自分の迂闊な言が切っ掛けであれば尚の事だ。
 相手が誰であろうと、詫びるべき時には詫び、礼を言うべき時には礼を言う。そうした誠実さが花梨の美点のひとつであり、頼忠自身もそんな彼女を好ましく思っているのに、その真っ直ぐな眼差しが自分に向けられるのだけは、未だに慣れない。   これからも、きっと慣れないだろう。
 花梨は剥き出しの膝を抱えると、胸元に深く引き寄せた。ふわりと子供のような笑顔をして、彼女は無防備に頼忠を見る。
「最近、よく急にお天気が崩れたりしますよね。今朝だって、まさかこんなに酷い降りになるなんて思わなかったもん。
 だから、通り雨に当たっちゃうのもしょうがないですよ」
「それも、神子殿が京の気を巡らせて下さったが故のこと。
 結界が解かれた影響で、今暫くは不安定な天候が続くと泰継殿も仰られておりましたが   京の気が留まったままでは、この雨も降る事すら叶わずに、天に淀んだまま濁りゆく定めだったのでしょう。
 なればこそ、五行の流れを京に取り戻して下さった神子殿には、深く感謝しております」
「そ、そんな畏まって言われても……っ」
 頭(こうべ)を垂れた頼忠に、花梨は焦って手をせわしなく動かした。今し方まで白かった頬に、うっすらと朱が差している。恥ずかしげに指をもじもじと絡めつつ、生真面目な顔で彼女を見つめる青年に、花梨は上目遣いの瞳を向けた。
「それも、みんなのお蔭ですよ。頼忠さんだって、わたしの事いっぱい助けてくれたじゃないですか?
 わたし一人じゃ、絶対に出来なかった事だもの。みんながいてくれたから、頑張れたの」
      
 ずきり、と。
 花梨の言葉を聞いた瞬間に、体の何処かが痛んだ。
 痛むのが何処かは分からない。或いは、ただ分かりたくないのかも知れない。瞼を固く閉じ、息を止めて疼きをやり過ごすと、何処かぼうっとした面持ちで扉の外を伺う花梨の姿が目に入る。
「雨、止むかな」
 独り言のように呟かれた主の言葉に、武士は律儀に返事を紡いだ。
「気の乱れによって引き起こされた嵐です。本来降るものでは無い雨ゆえ、そう長くは続かぬでしょう」
「そっか、それなら良かったです。
 あまり遅くなると、紫姫が心配しちゃうだろうから」
「……ええ」
 そのまま二人、目を閉じて雨音を聞く。
 肩先は触れず、濡れた衣の裾だけが触れ合う距離。時折爆ぜる火の音だけが、時間の経過を教えてくれる。
 後はただ、いつまでも変わらぬ雨の音。
 さあさあと流れる水の響きは留まる事を知らず、いつかは雨が止むことさえ疑わしく感じられるほどだった。

    ずきり、

 不意に。
 呼気を吐き出した瞬間、二度目の痛みが訪れる。
 再び彼を襲った熱い疼きは、今度は明確な刃の形を伴っていた。それと同時に、頼忠は己の感じた鈍痛が何によってもたらされたものかをはっきりと思い出す。

 嗚呼   そうだ。
 この痛みは、古傷だ。

 雨が降るたびに、大気が湿度に濡れるたびに、この傷はいつも頼忠自身よりも早く水の気配を感じてずきずきと悲鳴を上げるのだ。今でこそ大分少なくなったものの、傷を負ってから二、三年の間は、梅雨の時期など碌に眠る事すら出来なかった程だ。
 まるで、戒め。
 忘却を許さぬかのように、降り注ぐ水滴は傷にしみ込んで、今も癒えぬ肉の裂け目を疼かせる。じくじくと、じくじくと、水気を孕んで膿み腐る傷痕から、新しい鮮血が溢れ出す錯覚が、瞼の裏を鮮赤のいろに染め上げてゆく。

 赤く。
 赤く赤く。
 赤く赤く赤く。
 水干から滴る黒い染み。
 細い項を伝う、一筋の血の雫      

 ぱち、と、一際大きな音を立てて火が爆ぜた。

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