食むほど甘く

 嵐のような激しい時間が過ぎ去ると、代わってけだるい重さが全身を支配する。ぜいぜいと荒らげた呼吸もそのままに、私の体はぱたりと寝台に沈み込んだ。
(うー……だるい)
 彼は随分優しくしてくれたとは思うけれど、そもそもの基礎体力の差はどうしようもない。こんなに体力消耗するものなんだー、とか、忍人さんの方はあんまり疲れてなさそうでいいよなぁ、などと、とりとめの無い事をぼんやりと考えつつ、私は隣に横たわる彼をちらりと盗み見る。
 忍人さんは瞼を緩く閉じて、少しだけ私の方に頭を傾けていた。僅かに乱れた前髪と、うっすらと額に浮かぶ汗の跡が無かったら、さっきまでの行為が嘘のように見える静かさだ。
「う」
 その有り様をまざまざと思い出してしまって、わたしは反射的に頬を押さえる。掌の下の皮膚はひどく火照っていて、一度は落ちつきかかった心音が、またドキドキと煩く鳴り響き始めるのが分かった。
    そうだ。
 彼は私が想像していたより、ずっと穏やかに、まるで壊れ物に触れるように私の事を抱いてくれた。
 別に、乱暴に扱われるとか、邪険にされるような事を心配してた訳じゃない。一見とっつきにくくて気難しく見えるけど   まあ、そういう一面も確かにあるけれど   、本当はとても誠実で優しい人なのは、誰よりも私自身が良く知っている。
 ただ、価値観の自由な異世界とは違って、中つ国(こちら)では、褥ひとつ共にするにも一々礼儀やしきたりが煩そうだし、忍人さんならそういう事にこだわるんじゃないだろうか、とは少し思っていた。
 ほら、床入り前には三つ指ついて、とか、女は男のどちら側に附してとか、終わった後は単を交換して歌を詠んで   あれ、それはもっと後世の話だっけ? とにかく、そういうの。
 流石にそんな事は風早にも聞けないし、岩長姫にはからかい倒されそうだし、狭井君には借りを作ると後が怖いし、と逡巡している内に、気がつくとこの日が来てしまって、私は内心大パニックに陥ったのだ。
 みっともない真似を見せて忍人さんに呆れられたくはない。でも、やり方を知らないものはどうしようもない。
 散々悩んだ挙げ句、私は腹を括って、妻問いに訪れた忍人さんに、思い切りがばっと頭を下げたのである。
『ごめんなさいっ!』
『……な、何だ?』
 部屋を訪れるなり、いきなり大声で謝られて、忍人さんは気押されたように後ずさった。もう半ばヤケになった私は、勢いに任せてほとんど涙目になりながらまくし立てたのだっけ。
『わ、私、その……初めてだし、こっちのお作法とか全然分からないし、巧く出来ないかも知れないけど、……が、頑張りますからっ!
 だから、えっと、い、至らないところがありましたら、その、ご指導よろしくお願いしますっ!』
 後から思えば、戦いの稽古じゃあるまいし、ご指導よろしくも何もあったものじゃないだろう。我ながら間抜けな事を言ったものだ。忍人さんだって随分混乱したに違いない。
 あの時は私も余裕が無くて気づかなかったけれど、彼は珍しく目を見開いて、呆然としたまま見事に固まっていた。
 二人とも硬直して向き合っていたのは、どのくらいの時間だったんだろう。
 やがて、ふっと忍人さんが口許を緩めた。
『何かと思えば、そんな事を気に病んでいたのか』
 いきなり謝られるから、気でも変わったのかと思ったぞ   と、肩を震わせて笑いを噛み殺した忍人さんは、不意に手を伸ばして、私の髪をするりと梳いた。
『千尋』
 忍人さんの顔が、前触れもなく近づいてくる。思わずきゅっと身を竦めると、彼の唇が私の頬を掠めて、耳たぶに落ちるのが分かった。
   そのような些事、何も気に病む必要は無い』
 いつもより少し低く、熱を帯びた声。
『こんな時に、作法なぞ持ち出すほど俺も無粋じゃないからな』


 だから。
 心のままに、俺を求めてくれればいい。


(………うう)
 そう言った時の忍人さんの瞳を思い出すと、それだけで胸が締めつけられるように痛くなる。
 体は疲れを訴えているのに、胸だけがまだ興奮の余韻を残していて、早い鼓動が収まってくれない。これ以上動悸が高鳴ると、本当に心臓が壊れてしまいそうだ。
 少し熱を冷まそう、と、私は深く寝台に身を沈める。
 異世界(むこう)のものに似せて作った手製の枕は、とうに本来の位置から転がり落ちて役に立たなくなっていた。その代わり、と言わんばかりに、忍人さんの腕が枕のあった場所に投げ出されている。
 衣を着ていると細身で、ともすると華奢にさえ映る忍人さんの体は、こうして見ると全身にしっかりとした筋肉がついていて、とても綺麗だ。普段細く感じるのは、厳しい訓練と実戦の繰り返しで、無駄なものが極限まで削ぎ落とされた為だろう。あと、いつも一緒にいるのが、体の大きな狗奴の人たちって言うのもあるかも知れない。
「んー……」
 頭をもたせ掛けるのにちょうどいい恰好に伸ばされた彼の腕。思わずふらふらと擦り寄ってしまいそうになって、私ははっと我に返った。
 生粋の武人である忍人さんは、腕の自由を奪われるのを好まない。言うまでもなく、いざという時に瞬時に刀を抜けない為だ。一緒に散策している時も、戯れに腕を絡ませると、未だに困ったような顔をされる事がある。
(腕枕なんてしたら、嫌がられちゃうかな)
 好きな人の腕枕、っていうのは乙女の夢だけど、当の忍人さんに渋られては意味が無い。
 彼の腕を前に、うーん、と真剣に悩み込んでいると、その気配を察したのか、忍人さんの瞼がゆっくりと上がった。
「どうした」
 青みのかった深い黒玉が、真っ直ぐに私の顔を見つめている。何となく気恥ずかしくなって視線を逸らすと、私はもごもごと口の中で呟いた。
「その……腕枕しちゃ、ダメかなって」
「は?」
「忍人さん、腕取られるの好きじゃないでしょ? 刀が使えなくなるって、前に言ってたもの」
 私の言葉に、驚いた表情で二、三度瞬きをした彼は、やがて先刻と同じように柔らかく笑みを浮かべた。
「……何を言い出すかと思えば、まったく君は」
 私の視界から、彼の腕がふっと遠ざかる。と思う間も無く、忍人さんは頭ごと抱え込むようにして、自分の胸の中に私を引き寄せた。
 ふわり、と。
 全身が彼の体温に包まれる。あやすように髪を滑る指先は、目を閉じて感じていると、これが、破魂刀を自在に操るあの強靱な手と同じものかと疑ってしまうほど優しい動きだ。
「俺もそれほど無粋じゃない、と言った筈だが?
 そもそも、腕の一本くらい貸したところで、君を守れなくなるほど脆弱なつもりはない」
「それは……知ってるけど」
「なら、妙な遠慮はするな」
 叱るような言葉なのに、何故かそれは、酷く甘く私の耳に落ちてくる。それだけで私の体はあっさりと自分の意志を手放してしまい、眠気に囚われた仔猫のように、くたりと忍人さんの胸の中にくずれ落ちた。
「ん……」
 さらさらと、彼の指で髪を解かれるのが気持ちいい。時折耳に触れる指先がくすぐったくて身を竦めると、頭の上でくすりと忍人さんが笑う気配がする。
 ……こんなに。
 こんなに、彼が甘い人だったんだなんて。
 肌を重ねている時も、私を暴く手はとても丁寧で優しかったけど、到底器用とは言えないものだった。初めての私にだって、忍人さんが女性に慣れてないっていうのがはっきり分かったくらいだ。
 囁いてくれる睦言も途切れがちで、饒舌とはほど遠い。
 ただ。
 時折くれるそのたった一言が、私に触れる指先が、どうしようもなく甘くてたまらないのだ。
「……綺麗だな」
 そう、こんな風に、不意打ちで紡がれる言葉が   って!
「な、なっ……」
 気がつくと、忍人さんは僅かに身を起こして、私を上から覗き込んでいた。その体勢からだと、私の表情は勿論、剥き出しの首筋から、覆うものの無い胸元まではっきりと見えてしまう訳で   
「見ないで下さいっ」
 慌てて自分の体をぎゅっと抱きしめ、彼の視線から素肌を隠そうとすると、忍人さんは不満そうに私の動きを押し止める。
「何故隠す?」
「は、恥ずかしいからに決まってるじゃないですか!」
「恥じる事は無い。君は綺麗だ」
 ああ、もうこの人は   
 口先だけでは無く、本気で言っているのが分かるからタチが悪い。実直な彼にとっては、事実を事実として述べているだけで、それが高威力の殺し文句になっている事も理解できてないんだろう。
 はぁ、と私はため息をつく。
 何だか、私一人がドキドキしたり恥ずかしかったりしていて、忍人さんは平気そうなのが悔しい。
 だから、私はちょっとした仕返しを試みる事にした。
「忍人さん、最初に私に会った時、私の裸見たって全然反応しなかったじゃないですか?」
「む」
 彼の整った眉が、ぴくりと撥ね上げられる。しかめ面にも見えなくないが、これは彼が困惑している時の表情だ。見慣れれば、案外彼の考えている事は分かり易く顔に出る。少なくとも柊や狭井君なんかよりはよっぽど。
 それに気を良くした私は、忍人さんの胸にすりすりと擦り寄った。わざと悲しそうな顔を作って、上目遣いに彼を見上げてみる。
「おまけに『軽率だ』なんて叱りつけて、そのまま何も言わないでスタスタ行っちゃうんだもの。
 あの時、結構私傷ついたんですよ? 男の人から見て、私ってそんなに魅力の無い体なのかな、って」
「そ、それは   だが、しかし、実際君も軽率だっただろう!」
 追い詰められた忍人さんは、逆切れのようなタイミングで声を荒らげた。
「あの時は、只の浅慮な郎女かと思ったからあれしきの叱責で済ませたが、君が二ノ姫と知っていれば、無理にでも水から引き上げて連れ帰ったところだ。大体、王族である君が供も付けずに水浴びなど、言語道断だろう! 風早は一体何をしていたん   !?」
 放っておくと、そのままお説教モードに入ってしまいそうな忍人さんの唇を、私は自分のそれでぴたりと塞ぐ。
 触れるだけの口づけで彼の言葉を奪ってしまうと、呆然と私を見つめる忍人さんに、私は悪戯っぽく笑いかけた。
「こういう時は、無粋な事はナシって言ったの、忍人さんの方でしょ?
 今夜くらいはお説教は勘弁して欲しいわ」
「あ   いや、済まない」
 毒気を抜かれたのか、忍人さんはやけに素直に頷いた。そのまま彼は腕を伸ばしてきて、私はまた彼の胸に引き寄せられる。
 今度は、閉じ込めるようにぎゅっと。強く、隙間無く忍人さんは私を抱いた。
「……もう、あんな真似はしないでくれ」
 耳に触れる、切実な声。
 吐息交じりの忍人さんの呟きは、ひどく掠れていた。
「分かってる。今度水浴びする時は、弓を手放さないから」
「いや   そうではなく」
「えっと、ちゃんと護衛のひともついてきて貰いますよ? 流石に風早にはお願い出来ないけど」
「当たり前だ! ……っ……」
 私を抱きしめる手に、力が籠もる。
 彼の熱い唇が、私の頬に触れて、そして   


「君のあんな姿を……俺以外の誰にも、見せたくはない」

 ……あの場に居たのが、俺で良かった。
 

 ひときわ甘い囁きが、鼓膜を溶かす。
 注ぎ込まれた媚薬は、とろとろと脳の中にまで流れ落ちて、思考のすべてを蕩かしていくようだ。
 誘われるまま、するりと忍人さんの首に腕を巻き付けて、私は彼の鎖骨に軽く歯を立ててみる。ぴくりと揺れる彼の体が、たまらなくいとおしい。
「じゃあ……忍人さんと一緒なら、水浴びに出掛けてもいい?
 忍人さんなら、私の事しっかり護衛してくれるでしょう?」
「千尋……」
 忍人さんは驚いたように息を飲んで、それからくすりと笑った。
「随分と大胆な申し出だな。
 君からそんな誘いを受けようとは、夢にも思わなかったが」
 彼の手が私の腰を抱く。緩く肌を摩っていただけの掌が、はっきりとした意志を持って、皮膚を逆撫でしていく。
 ゾクゾクと体の芯から沸き起こる衝動に耐えながら、私は忍人さんの手に身を委ねた。
「……嫌?」
「否と言っても、どうせ聞かないのだろう?」

    君の、望みのままに。

 彼の言葉は食むほど甘く。
 愛しい人の与えてくれる甘い果実を、ケモノのようにただ、貪る。
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